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2014年6月

2014年6月26日 (木)

このところ恒例となっている国分寺ギーの映画会で見た土井敏邦さんの「沈黙を破る」という映画は、パレスチナに送られた若きイスラエル兵のドキュメンタリーだった。

20歳前後のイスラエル兵は、暖かい家族に囲まれて幸せに育った青年たち。徴兵制度に、正義感と誇りを持って、兵役に当たった。
が、その仕事は、親のような年頃のパレスチナ人を意味もなく抑圧することと、幼い子どもも、年よりも、全てのパレスチナ人をもののようにみなし、時には傷つけたり殺したりすることだった。
子どもを執拗に何発もうって、ぼろぼろの死体にしたり、家ごと爆破したり、重機で死体ごと踏みつけたり、遠くから、ゲームのように、人間を、ねらって撃ったり。
そういうことを、自分たちは笑いながらやっていた。深く考えることを、拒んでいた。そのときはそれが普通の感覚だった。
兵役が終わって日常の生活に戻っても、もうもとの自分に戻ることができない。
んな若者たちが痛みに耐えかねて、声を上げた。こんなことが、イスラエルの真実だと、知ってほしいと。イスラエル国民に向けて問いかけた。


そんな映画でした。


集団的自衛権。
争いのほうへと進もうとする力。

反対むきの風を、すこしでも吹かせたい。

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たらちねの母

昨日はいわきの「たらちね」に行ってきた。
今度のシングルCDの売り上げの行き先になるところ。
ここは、お母さんたちでできているグループだった。
電話の感触で、「あ、この女のひと、すき。」って思っていたけれど、もうなんとまあ、さばさばした、意志的な、やさしくつよい女たちであったことでしょう。
ここは放射能測定室。
持ち込まれた、食べ物や、土壌、人体の放射線を計ってくれる。
また、丁寧な甲状腺の検査もしてくれる。
子どもたちの転地保養のサポート、お母さんたちのつながれる場所の提供などもしている。
学校の敷地内の線量を計って、高い場所の除染を行政にお願いしたり。。
いまここにある不安、孤立感、子どもへの思い、現実から逃げたい気持ち、さまざまが入り混じったその地で、とにかく今必要なことを、黙々と続ける陽気なおかあさんたち。
わたしは、このひとたちを、めっちゃ応援したいです!

http://www.iwakisokuteishitu.com/

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2014年6月23日 (月)

とびたつ

10数年前、子どもがまだ思春期のころ。一緒に大きくなった回りの子どもたちもまた思春期で。うちもずいぶんいろいろ心配されてたんだろうが(母子家庭だし登校拒否だし 笑)幼くして母を亡くした子や、アル中や精神疾患になってしまった母親を持つ子が、たくさんいた。
ちゃんと大きくなれるんだろうか、と、いつも心配だった。荒れるこどもたちの苦しさを、ずいぶん感じてきた。
わたしは、「気のいいおばちゃん」になるしかできなくて、せめてなるだけ声をかけた。
その子らももう大人になり、団地を離れ、一人で暮らし始めたとうわさを、ポツリ、ポツリと聞く。
ああ、みんな何とか大人になれたんだあ、仕事なんかしてがんばってるんだなあとうれしくなる。
思春期の、あのつなわたりのようなもろい時間を、よく生き延びてがんばったねえと、命のちからに感動する。
私自身もとても弱いけど、誰かのことを思うと少し強くなる。子どもたちはそうやって、いつも大人を支えてくれてたんだなあと、おもうんだ~

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2014年6月21日 (土)

うたのこと

くまの歌を歌っている。
7,8年まえかなあ。急につらっとでてきて、みじかい民謡のよう

な歌ができた。
ずうっとうたっているうちに、世界に取り込まれてきた。
くまがわたしを侵食し始めている。
野性に帰りたいと時々意味もなく思う 笑

こういうことは時々ある。
うたができたときにはわからなかったことが自分をとりこんでいく


時間がまともにながれなくなる。
感情がだれのものかわからなくなる、
そして、
なぜかとてもここちよくて、そちらのほうへついていきたくなる。

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2014年6月18日 (水)

ちらし

  • 七月からの新しいチラシを作っていた。もうプリンターも壊れちゃったし、ワード?とかもできないし、全手書きで作っている。字はヘロヘロだし、絵は適当だし、、だけどなんだかこのごろ楽しくなってきた。夏っぽい、海っぽい感じにしてみた。自分のいいかげんな感じがよくあらわれたチラシになった~~
    そして、ひとつひとつのライブ、書きながらとても楽しみになってきた。

    共演のミュージシャン、時には画家や、ダンサー、店のママさんやマスターの顔を思い浮かべながら、彼らの愛すべきことを思い、ニヤニヤしながら、ぶつぶついいながらの楽しい時間でした。
    ああ~~
    みんなに会えるのがとても楽しみです~~

    うひょひょい

Photo

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2014年6月16日 (月)

おもう。

時は流れていくし人は変わっていく。

とどまらないことが時にはさみしいけれど

流れていけばまた新しい出会いが待ってる。


泣きながら笑う、どちらも本当。

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2014年6月15日 (日)

けものやらもののけやら

もとは、人の通っていたであろう山の中の荒れた道を行く。
人の気配が長く途絶えている。
道だったところには笹が繁茂していたり倒木が放置されていたり、その上にすでに次の命の動きがはじまっていたりする。
そういう場所にひかれる。
が、時に強い拒絶を感じる。
あるいは、ためされるようなかんじ。
歌うと、ほどけることもある。
でも昨日はとてもこわかった。
「ごめんなさい」といって、引き返した。

そういう気配にであった後はでもなぜか、ほっとしたきもちになるんだ。
人間は生き物の中の弱い一部だと、あらためておもう。

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2014年6月 2日 (月)

福島のママたち

デモには、何度もいったことがある。都会の大きな道をシュプレヒコールしながら、歩くやつ。
大学生のころはヘルメットかぶって、タオルで顔隠すようなやつにもいってみた。
311以降はピースウオークと呼ばれるようになったもの。
サウンドデモみたいなとがったやつ。
それから、地元の小平や小金井のお母さんたち手作りの小さいやつ。
国立の仲間たちのめちゃめちゃ楽しい仮装デモ。
そんな中で思ったことを歌にした。
それを今度、エクペリのCDにする。

その売り上げを、福島のお母さんや子どものサポートをしている団体に寄付したいと思った。
信頼する友人たち複数の口からいわきの「たらちね」という団体を聞いて、今日、電話して話した。

ここは食べ物、土壌、人間の放射能測定、甲状腺検診を、やっている。不安、は、明らかにして取り除く、あるいは向かい合う、未来に向けて。
それから子どもたちの転地保養や母親たちのサポート。

代表は、静かな感じの女の人。しかし、話していくうちに、強い意志と覚悟みたいなものを感じる。
汚染による体の影響は数年後から顕著に現れる、とチェルノブイリでわかっている。だから、これからのこども、と、おかあさんを、誰かが支えていかなくては。
支援を、続けるためにはどうしたらいいか、今日はそればかり思う。

なんかね、楽しいことで。みんなで。やれたらいいね~。

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2014年6月 1日 (日)

父のこと

夏の便箋と封筒を買ってきたので、そのあたりの引き出しを整理していたら、母が生前録音した、子どもたちの幼いおしゃべりのカセットテープと、母の死をお知らせするための父が作った各方面に送ったはがきが出てきた。 母は専業主婦の範疇ではあったが、とても自由な人で、思いつくことを好きなようにやって楽しんでいた。父は専業主婦の範疇に入っている限りは、いつもそんな母を、かわいがっていたんだと思う。その、「範疇」があることが、私には、無理だったのだけれど 笑 かわいがっていたということをはっきりわかったのは、母が亡くなった後。私は母との関係のほうが深かったので、母の「範疇」に対する不満その他むかしの女性の理不尽な思いのほうに共感することが多かった。 母がいなくなって、父の言葉や想いがやっとストレートに私に届くようになった。 父は赤坂の老舗のひとり息子であったが、父を早くになくし、その後東京大空襲にあって、焼け出され、すべて失い戦後は貧しい母子家庭で育ち、大学にいけなかったコンプレックスを持つ。高卒で、小さな会社に就職し、大卒との格差を実感しながらの40年余りをすごしたんだと思うが、とてもまじめで、決められたことをこつこつと、正確に丁寧に誠実に行う性格は、会社の中で地味に認められ、77になる今でも、仕事の依頼がある。 わたし、1個も似なかった~ 笑 父の世界は会社と家族。趣味は特にない。 私はそれには今でも共感はできないのだけれど、 母に対する父の想いには時々感動する。 恋愛的要素とかではない、家族としての思い。 いとおしいという気持ち。 私はながく表現の場所にいて、思いを歌にすることが生活のようになっているけれど、父はおそらく80年近く生きてきてはじめて、自分の個人的な思いを、大勢の人に向かって文章にした。それは、 母の希望で家族葬にしたためにみんなに母の死をお知らせするはがきを出さなければならなくなった、その文章を作るとき。 ありきたりの文を使わずに自分の母への思いを、ひとりで考えて書いた。私は何も手伝わなかった。 短くてもそれは、母への愛があふれているんだよ~~涙 私は夫婦という選択をできなかった。 でも時々、夫婦っていいなあ。。とおもうんだよ。 たまにね 笑

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