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2013年6月

2013年6月30日 (日)

かに 5

かにもザリガニも雑食性で、魚や虫も食べるけど、草もよく食べる。
水質がよくなるので、水草をたくさん入れていたが、食べられて絶滅してしまうので、別の場所で、畑のように水草を栽培している。
夏場になると、ボウフラの温床になるので、金魚を入れる。
そうして、生き物が増えていくんだけれど、
金魚は買って来るとしばらくばたばたと、亡くなることが多い。
そして死んだ金魚はかにとザリの水槽に入れた。

ザリガニがすぐ、何匹もよってきて、けんかになるが、一番大きいのが持っていく。
ライオンや熊とまったく同じようにまず、はらわたの部分を真っ先に食べる。
その間もハイエナのように、けんかに負けた小さいやつが、隙を見て、食いつく。
追い払いながらも、たぶん一番おいしい部分を食べ終わると、
ふう~という感じで獲物を手放すが、
他のザリガニが取ろうとすると、おなかのところに何本もある小さな器用な手(たぶん)を使って、抱え込む。
ハサミは主に闘争用の手だ。そのハサミで、追い散らす。
ライオンや熊は、おなかいっぱいになると、獲物をほったらかしてしまうという印象だが、
ザリガニは食べなくても抱え込んでいる。
胃の容量のちがいだろうか。。。
まあでも、空腹時とは真剣さがちがうのか、小さいやつも隙を見ててきとうに食べている。

そんな騒ぎを尻目に、かにはお気に入りの場所でまったりしていた。
水生植物を、今度はみなさんに食べられないように、植木鉢ごといれたら、
そこに上ってきて、鉢と、土や植物の間を押し広げて、体が入るようにしてぴったり収まっている。そこは植物のそばで、植木鉢の中にたまった水は外よりきれいみたい。
たまに葉っぱをかじっているようだ。

ザリガニはピリピリ、かにはのんびり。
日曜日の、うす曇りの、午後の団地の、ベランダの、水槽の中のできごとです。

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2013年6月28日 (金)

かに 4

かには、すきまがだいすき。
体が平べったくなるので、すぐすきまにはいって、あしをふんばって、甲羅ですきまを広げたりするのは、必要があってやっているというよりも、面白がっているように見える。
かに的には、ときどき、力を使わないとたまってくる、のか?
こういうところを見ていると、クワガタを思い出す。クワガタも、すきまが大好きだし、広げるのも得意だし。何度、逃走されたことか。思わぬすきまを、広げて逃げだす。
そして部屋に潜んでいても、夜になると、どうしても「ぶ~~ん」と、飛んでしまって、見つかるところがまぬけである。

かには、高いところがすき。
水槽のなかの植物のてっぺんに行きたい。
でも重いので、植物はくにゃあ~としてしまい、残念そうだ。
そういえば、やどかりも、高いところがすきだなあ。どうしても、てっぺんにいきがる。
なんでなんだろう?
習性ってふしぎでおもしろい。
きっと、意味があるんだろうなあ。。。

かにを見ていたら、
近くでザリガニが、横になってすごくもがいている。
え、具合悪いの?と思ったら、ザリガニが二重に見えてきた。
ああああ~脱皮じゃん!
セミや蝶の羽化はゆっくり静かに進むけど、ザリガニの脱皮は
めちゃめちゃもがいて、急にぴょーん!と背中から後ろに下がったら、
出来立てほやほやのザリガニがでてきた。
私が死体と間違えたのはやはりきっぱり脱皮がらで。
ザリガニはクリアで新しく、ぴかぴかで、
しばらく自分の手や足(どれがどれだか?)をゆっくり確かめていた。

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2013年6月24日 (月)

けんじくんのこと 5

言葉、というものを私はあまり使わない。
伝えたいことは、いつも言葉では伝わらない。
知りたいことは、言葉で説明されることではない。

昔は、もっと言葉を信じていた。
「家」に住んでいたころだ。
わたしたちは、たくさんの言葉を使い、説明したり、ののしったり、和解しようとしていた。
今でもなぜだかわからないけれど、多すぎる言葉は、時に何も伝えない。
言葉を操るうちに増幅された、怒りや、いらだちの感情だけが、正しく相手に届いていたりする。

。。。。。。。

けんじくんがまた、ゆっくり昔話をしている。
今日は、いろんな国を回って旅をしていたころの話だ。
ちゃんと聞いてるふりをしてるけど、けんじくんの言葉が、リズムのように、メロディーのように流れていくのが心地よくて、話の内容はいつもよくわからない。
けんじくんの広い胸に耳をつけて、そこからきくけんじくんの声がすこしこもって、おもしろい。
ときどきは心臓のリズムを聞いてみる。
それは、ゆっくりと、大きさをかんじる余裕のある音で、とても規則正しく、わたしは小さな子どものように安心な、まもられたきもちになる。

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2013年6月23日 (日)

うちのうさぎ 2

ベランダに朝顔を植えた。
が、油断していた。
うさぎにやられた。
朝顔はうさぎにはよくないと書いてあって、たべると、おなかが痛くなったりするらしい。
私は子どももその他の生き物も、基本自分の体で何でも覚えるべきだと思っているので、
猛毒でない限りは自分で学習していただく予定でいる。
で、去年、彼(うさぎ、オス、6歳)は、すでに朝顔体験済みなので、そのあと、へんな糞もしてたので、わかってるとおもっていた~。あほである。
それとも、おいしかったのか?

このうさぎ、2年かけて、とげだらけのサボテンに挑み、制覇したつわものである。
大丈夫だと思っていた多肉植物を、根こそぎ食べつくした後、
サボテンの花芽をかじった。
なんでも、花芽はおいしいらしく、だいすきなのだ。
でも、花芽は、とげに守られているので、その際にとげに、鼻先を刺されたりしたのだと思う。
その年は、ちょびっと、かじっただけで終わった。
その後、
さぼてんに、見向きもしなくなったので、これはだめだとあきらめたのだと思っていた。
が。
一年くらいたったあとだろうか、サボテンの、胴体部分が大きくえぐられていた。
2センチはあるとげ、もろとも、ざっくり。
どこにも、とげが落ちていなかったので、
バリバリだべてしまったとしか思えない。
ひえ~~、大丈夫なの~と、さすがにあせったけれど、
へんなウンチもしないし、いたって、健康そうである。
まあ、かれはそんなやつです。

大きくえぐられたサボテンは、体が傾いてしまったが、今年も律儀にきれいな花を咲かせた。一年くらいやすめばいいのに。。。
こちらも、アッパレ、である。

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2013年6月21日 (金)

うちのうさぎ

うさぎには近所で雑草をとってっくる。
何を食べるかわかるまでは結構いろいろ試してみた。
うさぎが自分で食べてはいけないものがわかるかどうか不安だったので、
まずわたしが食べてみたりもした。
そしておいしかったのは、たんぽぽ、ぺんぺん草の花芽、おおばこ、はるじょおん、からすのえんどう。
からすのえんどうは、春早いころ、アブラムシがつく前には必ず食べる、春先の楽しみになった。紫の花とともにさっと湯がいて、オリーブオイルと塩でいただきます。

うさぎの前にはあまがえるがいて、生きえさ(ばったとか)をとっていた草むらが、今はうさぎの餌場になっている。なんだかこの十年(あまがえるは7年生きた。)ずっと、近所の草むらばかり徘徊している。

草むらは、この十年で、ずいぶん減った。
きちんと手入れされて、園芸品種が植えられたり、刈り取られて、整地されて、アスファルトで固められたり、新たに建物が作られたり。
あそこには、たくさんのばったや、蜘蛛や、はえや、蛾や蝶の幼虫。小さな甲虫の幼生や、蚊も、ダニも、アブラムシもアリも、みんな生きていて、季節ごとに、小さな花を咲かせるさまざまな植物が、順番に繁栄していた。
ごそごそ入っていけば、、夏には蚊に食われたり、なんだかわからない虫にかぶれたり、秋には洋服にたくさんの種がくっついてきた。
そうやって、うちのすぐ近くで、小さな生き物たちのサイクルに遭遇できる草むらでのえさとりが、わたしのちいさなときどきの楽しみです。

草むらや、空き地、路地裏や、廃屋。なにでもない無駄なばしょ。
そんなものがなくならないように。
いつまでもそんなばしょで、遊びたい。

あ、うさぎのこと、かくのわすれた。

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フリーインプロ

ロックバンドやって24年、日本語で歌を作って歌い続けてきた、けれど。
それは今でも大切なことだけど。

あるときから、「言葉」のそとにあるものを表現したくなっていた。
そんなとき、フリーインプロに出会った。
声、そのものの可能性に、のめりこんだ。
それから、出会うプレイヤーの多様性にひきつけられた。

音楽が大好きで、さらにどこか別の場所に行きたくて、試行錯誤している音楽バカたちにいっぱい出会う。
わたしはそんなバカで変態な彼や彼女たちのことがだいすき~

そしてもういちど、今度は「言葉」と、新しく出会い始めている気もしてるんだ~。

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2013年6月20日 (木)

けんじくんのこと 4

気流にのって空をはしるのが好きだ。
空気がみずをおおく含んでいるこの時期は、高いところが気持ちいい。
いつもの公園も、草を食べに行く川原も、焼き鳥屋のある裏通りも、けんじくんのことも、
うんと小さくなって、
だたわたしは、よろこびに身体を支配されてかけめぐる。
そらはひろい。
私のからだのなかのむずむずするものがどんなに暴れても、さえぎるものはなにもない。

私の下をトンボのむれが、すい~と過ぎていった。
夏はもう、そこまできている。

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けんじくんのこと 3

夕方になると、ときどきいっしょに裏通りの焼き鳥屋さんに行く。
けんじくんはいつも、「鳥皮と、レバー、たれで。」って言う。
わたしは、鳥皮は塩のほうがすきなんだけど、黙っている。
けんじくんが何を思っているのかいつも知りたいと思うから。

けんじくんはおおきな体をしているけれど、案外お酒が弱くて、まだビールを飲んでるうちに酔っ払ってしまう。ビールの次は焼酎に決まってるのにそこにたどり着く前に、真っ赤になって落ち着きがなくなってくる。
けんじくんは狭いところが嫌い(大きいのでたいていどこでも狭い)なので、広いところに出たくなるのだ。
だからいつもわたしは呑み足りない気持ちで(わたしは結構お酒が強い)おあいそにする。

外はでもとっぷり暮れていて、いい具合の夜が出来上がっている。
梅雨の晴れ間の涼やかな風が私たちを通り過ぎていく。
わたしはたいていコンビニでワンカップを買って、呑みながらふたりでふらふら歩く。
けんじくんの首のところの柔らかな毛が気持ちよさそうに流れていて、またわたしはそこに触りたくなる。
けんじくんの声がすこしかすれて色っぽいな。
どこかあそこらへんの物陰でもっと接近してあれやこれやしたいな、
などと思っているが
けんじくんは気持ちよさそうにご機嫌で、
アスファルトの道はどこまでも続いていて、
上ってきたお月様が行く手に
私たちを明るく照らしているのでした。

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世界のおかあさん 1

世界のおかあさんという歌は22年前につくった。
下の子どもがおなかにいるとき。
湾岸戦争があったとき。

このころわたしはまだうんと若くて、2歳の娘を抱えてロックバンドをやっていて、みんな、
へ~い、楽しもうぜ、とか、恋愛の歌とか、世の中に反発する感じのやつとか、そんな感じの歌を歌っていて、でも私の日々といったら、寝不足の授乳とか、離乳食とか、パートとか、公園とか、洗濯とか、そんな日々だった。子どもがいつも泣いてるから、音楽かけてもうるさいとしかかんじなくなっていた。私から出てくる正直な気持ちはそのとき、お母さんの気持ちしかなかったんだよ。
でも、ロックじゃん。
まわりはまだ、子どもどころか、結婚だってまだまだだし。
ツアーとかいって超うらやましいし。
お母さんの気持ちなんて歌えないって思ってた。

で、湾岸戦争。
テレビで見たはじめての戦争中継。
ショックだった。
そして本当に思い切って、わかってもらえなくてもいいと思って、
自分の正直な気持ちを歌にしたいと思った。

歌をバンドメンバーに披露するときはとてもどきどきする。いつも。
なんか、ふ~ん、それでって、流されちゃうこととかあるし。
この歌はまた、違う意味でバンドメンバーともめることになる。
そして、それをきっかけにバンドはばらばらになり、初めての演奏はたしか、アコースティックだったとおもう。

今、たぶん一番たくさんの人が聞いてくれてるこの歌は、こんな風にして始まりました。

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2013年6月16日 (日)

夏の午後 2

今日はすこし呼吸が楽な気がします。
でもやはり記憶はもうろうとしている。
そのことは、肉体からのやさしい配慮なのかもしれません。
先月までは
息苦しさがつらかった。
心臓もたびたび痛みに襲われ、恐怖心と苦しさでやがて自分は狂ってしまうのではないかと思っていた。
もうどうせ死ぬのに、なぜこんな苦しみが。。。ああ、はやくおむかえにきてください。と、思っていた。介護の大変さは十分体験していたわたしが、家族のことなど、思いやれなくなっていました。

枕元で主人が花の水を替えてくれたのでしょうか。夏は切花が長くは持たないから。。
人生が終わっていくと思うことに、もうずいぶん慣れてきました。
わたしはこうして、もうすぐいなくなる。
苦しいとか、悲しいとか、愛おしいとか、ねたましいとか、そんないろいろの感情をかつてわたしは持っていたのでしょうね。
わたしは本当はすこしずつ死に始めているのでしょう。
生と死の境目はお医者様が決めるようだけれど、それはそんなにきっぱりしたものではないのでしょう。
肉体はやさしい。
もう、身体も、心も、解き放たれてきました。

おもては、きっと明るい夏の日でしょう。
アブラゼミの声が聞こえる。子どもがすっかりいなくなってしまったこの住宅地に子どもの声がきこえています。
「セミ取りに行くのなら帽子をかぶっていくのよ。日射病になるからね」
声は聞こえたでしょうか。息子はからだが弱いのです。

ああ、すこし息苦しくなってきました、背中をさすってほしい。
この優しいてのひらはだれ?わたしにやさしくしてくれる、あなたをまたわたしは呼んでしまった。
あなたも、娘も息子も孫たちもなんだかずいぶん遠いところにいるような気がします。

そして、ぼんやりとしたひかりのなかで、
ただ無心に、順番を待つようにたたずんでいるのです。。。

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2013年6月15日 (土)

夏の午後。。。ひるね

泣き疲れて眠ってしまった。
静かになったら、なんてのどかな夏の昼下がりなんだろうと、気づいた。

きみは小さなまるいおでこに汗をかいて、柔らかなかみのけが濡れている。
おなかがゆっくり上下して、やすらかだ。
右のほっぺが左より赤いのは、さっきわたしが混乱してぶったからだ。
君の小さなほっぺをこのてのひらで。

きみは80センチにも満たない小さい体で、岩のようなかたくなさで泣き続けた。
泣きたいのはわたしだっておなじだった。
だって、やりたいことはなんにもできない。
自分の洋服なんてもうずっと買ってない。
いつもいつもこの部屋の中で、日本語の通じないきみとふたりきりで。。。
そしてわたしは、きみをぶった。

きみはますます激しく泣いたけど、いつかつかれて、
眠ってしまった。

みんみんぜみが鳴いている。
午後の空気がものうくゆっくりと、流れていく。。。

ねえ、

目が覚めたら、公園に行こうね。
きみのすきな、遠いほうの公園に。
あかいバケツとシャベルと帽子。
すいとうにジュースも入れてね。

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かに3 ぬれぎぬ

どうやら、かににぬれぎぬを着せてしまった。
ザリガニの死体だと思ったのは脱皮殻だったようです。
あまりにもかにの居場所の周りにばかり散らばっていたのと、つまみあげてみたら肉が入ってそうだったのと、かにが強気になってきたので、間違えてしまいました。
その後、観察していたら、やっぱ脱皮だなっとおもいました。

小さいころ、海でかにを採ってきて、(ベンケイガニくらいの大きさのものだった。)しばらく飼っていたことがある。何かの拍子に父(生き物好き)が親指を挟まれて、そうしたら、どうにもこうにもはなさず、父の指から鮮やかな赤い血がだらだら流れていた映像が焼きついている。わたしは、小さいかにの執念と、思わぬ力強さが、すこしこわかった。
だから、かにやザリガニ、くわがたやカミキリムシのハサミには、とても用心している。
凶暴で執念深い、知的でないからこその怖さ、みたいのをかんじる。
かえるもたぶんそれにやられたし。。。
で、ぬれ衣を着せてしまったようです。かによ、すまない。

今日かにはそのハサミをつかって、実に器用にご飯粒を食べた。左手で挟んだご飯粒を、右手ですこしずつちぎって口へ運ぶ。お、右利きか!?と思っていたら、次の粒は左右を変えて使っていた。どこからどこまでが口なのかよくわからないけれど、胴体のまん中辺りのあいまいな割れ目のあたりに入っていく。
ばら撒いたご飯粒をザリガニが取りに来て、一粒ずつむねにかかえて居場所に帰っていった。
昨日のザリの脱皮がらはもう、あらかた誰かに片付けられてしまった。

すこし眠そうな、午後の水槽です。

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2013年6月14日 (金)

けんじくんのこと 2

けんじくんのからだはとても大きい。
わたしは、けして、かれの全体にいちどきに触ることができない。
全身で抱きついても、ふくらはぎくらいだったり、二のうでだったり、広いおなかに張り付いていたり、ふたつのお尻をいったり来たりしたり。
おおきなけんじくんは
四角いどっしりと守られた、いごごちのよい家に住んでいる(らしい)

そういえば私も、むかし「家」に住んでいたことがある。
それは明るいももいろと黄色の思い出のような場所にしまってあります。

けんじくんはときどき昔話をする。
それは、しまっておくほうのはなしではなくて、何回も取り出して懐かしむためのはなしなので、幾度も話されて言葉が洗練されていて、物語のようです。
わたしは、その中のたたかいの話がとくにすきです。
ゆっくりしたけんじくんのなかにある、怖いところが感じられて、いつもわたしはどきどきする。

やがて夜が来るとわたしはいつものように流れるかぜの下でひとりで眠ります。
それはすこし寂しくて自由で、とても自分らしい時間です。

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わたしたちはくらいつぼのなかで

このつぼの中が私はとても落ち着く。
 
去年私はすこし鬱気味で、水はいつもよりすこしぬるくていやあなかんじで、ちょうどいい割れ目も、サンゴの茂みも見つからなくて
ぼんやり漂っていたら、このつぼが水面からおりてきた。
紐がついてるやつは用心しなきゃいけないってことは知ってたけど、これはひももついてないし誰も入ってなかったから、私のものにした。
それ以来、
このなかにいる。
 
鬱になった原因はもうすっかりわすれてしまった。
けど、
あいかわらず、
なにに対してかわからないまま鬱々としている。
いくたびか
誰かが尋ねてきた。
「おつらいでしょう?さあ、一緒にそこから出て、うつ、を、なおしましょう」
よけいなおせわだ。
わたしはこれでいい。
なおさなくていい。
つぼの中で、
すこし不幸で。
希望みたいなものが
また私を傷つけてしまうよりかは。
 
 
 

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ヒカレテ

夏のからだに切り替わっていく。

海のほうへ呼ばれていく。

呼ばれても、もはや私は海の本質にとどくことはできない。

いつだったか、あの深い青のはるかむこうからわたしはやってきたのではなかったのか。

はるかむこうは、わたしのうちがわにあったのではなかったか。

ひかれていく。

うみに
記憶に
淵に
深みに
のぞきこむ、

のがこわい場所に。

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けんじくんのこと

けんじくんをみると、いつもわたしはそわそわする。
いっしょに歩いているくらいいいじゃないかと、彼は言うけれど、
誰がみたってわかるくらい、舞い上がってうきうきしてしまう、ので、
できれば人にみられたくない。

けんじくんの首の辺りのやわらかな毛の感触がわたしはだいすきです。
そこに鼻先を押し当てていいにおいをかんじながら、夕方の屋根の上でまったりしていたいけれど、けんじくんは屋根はにがてなんだって。

いつか屋根みたいな高いところで、けんじくんもいけるような場所をみつけて、夜になってもうちにかえらずに(わたしはうちなんかないんだけど 笑)あけがたのうすねずいろを一緒に見てみたいです。

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かに2

また、ザリガニが死んだ。
先に死んだ2匹の死体もなまなましい。
胴体のところの殻がざっくり切られていてる。

ザリガニはまだ2~3センチと小さくてハサミもやわなので、これはたぶん、かにの仕業だと、予測した。

ここのところのかには、どうも態度が大きくなってきている。
ハサミの振り方に自信がかんじられるし、覗き込んだときも、申し訳程度に逃げるだけ。
えさを入れる割り箸にも逃げていたのに、さっきは、ハサミで箸をはさんで離さなかった。
ザリガニを攻撃したことで、この水槽での自分の地位を自覚し始めたのか。

かえるを食べた去年のザリガニもそうだった。
そのときかえる(ウシガエルのまだちいさいやつ)と、ザリガニはほぼ同じくらいの大きさになっていた。いろいろ入っていたけど、
水面にはかえる、水底にはザリガニ、が一番の大物だった。
ザリは、上のほうにいるかえるがめざわりだったのだろうか。
水槽を完全に自分のものにしたかったんだろうか。
ある日かえるは片足を失った状態で水底に沈んで死んでいた。
たぶん足をつかんで離さずにおぼれさせたのだと思う。
そして2日ほどかけて、かえるはきれいになくなっていた。
それからザリはどこか風格が漂い堂々として、覗き込む私を、両手のハサミをたかだかと上げて威嚇するようになった。
彼(彼女?)は、うんと小さいころ泥とともにうちの水槽にやってきて、野性から切り離されて育って、生まれてはじめての大物の狩を体験して、本当にザリガニらしく堂々と威張って生きていった。
おたまから育てていたかえるの死は悲しかったけど、ザリガニの野生にほれぼれしたのでした。

さて、ペットショップで生まれたベンケイガニも、これからどんな「かにらしさ」をみせてくれるのか。。。
ザリガニも、すでに、性格の違いがあらわれてきている。

とりあえずザリの隠れ場所をたくさんつくってみたよ。

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2013年6月13日 (木)

かに

夏が近づくと、水の生き物が恋しくなる。

去年はかえるとザリガニだった。
かえるは、えさと思ってとってきたザリガニが大きくなって、反対に食べられてしまった。ザリガニは夏の終わりに死んでしまった。

今年は、Jマートのペットコーナーに癒されにいったら、ベンケイガニ(380円)にやられてしまった。
ハサミの動き、八本の足の送り出し方、ぷつぷつ吹いているあわ、力持ち。
わたしはかわいくて、野生的なものに、すぐめろめろになりやすいのだ。

窓辺の机の上に水槽を置いた。土と、水草と、隠れ場所の植木鉢と、ステージのような平たい石。やっぱりちかくの流れで、小ザリガニ8匹と(土を取ったら入ってきてしまう。)えびと、さかなをとってきた。
そして、流れからの湧き水(国分寺は湧き水がきれい)をいれて。
えびとザリガニ2匹はもう誰かに食べられてしまったらしい。
えさが充分にあっても、彼らはそんな風に行動する。
プランクトンの動きも見て取れるようになった。

小さな生き物たちの野生は、いつも私を感動させる。
小さな身体ひとつで当然のように生きていくことや、黙ってあっさりと死んでいくことに。
死体も脱皮殻も、誰かがきれいに食べてしまう。彼らの糞は水草が養分にしたり、プランクトンたちが分解して、水はいつまでも澄んでいる。無駄なものは何一つない。
そんな自然のサイクルに。

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2013年6月 7日 (金)

ジャパニーズ

フランスからきた画家(日本大好き下町暮らし)と、なにやらコラボを計画している。
で、時おり会ってとりとめのない話などするのだけれど、そのうちに自分の日本文化を好きなことに気づく。と、いっても、音楽と、食べ物だけどね。
しかも、音楽って言ったって、寝しなに、おばあちゃんが歌ってくれた民謡とも童謡ともつかないうただったり、盆踊りで聞き覚えた八木節や炭坑節、やぐらの上で刺青の兄ちゃんがたたいていた太鼓(かっこよかった~)、台所仕事しながら母が歌っていた古い唱歌、後どこで聞いたのかわからない邦楽の断片、その、間の感覚。

そんなものがその後聞いたロックの前に深く私にしみこんでいる。
と、気づく。
そして、わたしは日本の音楽について、(深く知りもしないのに 笑)なにやら自慢げに!話してしまう。自慢なんだ~と、気づく。

幸い画家は日本びいきなので、にこにこきいてくれている。(よかった。。)

ロックやリズム&ブルースを始めたころ、日本的なものを排除して、なんとか黒人みたいに歌いたいとか、エイトビートのかっこいいノリを出したいとか、もう夢中で練習していた。
そして、うんと遠回りして、やっと、もうどうしようもなくジャパニーズな私の、音楽を探している。

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